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ライフストーリーLife story

幼少期〜高校時代
貧しい暮らしの中で見つけた「夢」のかけら

  • ・第二次世界大戦に日本が敗戦し、復興の道を歩み始めた1947年1月28日、熊本県鹿本郡稲田村(現・山鹿市)に生まれる。
  • ・生まれた当時、我が家は、父母、祖母、私を含めた子供七人の合計10人という大家族で普通にお米を食べることもままならず、一足50円のゴム靴をツケで買っていたくらい貧しい状況だった。勉強を一切しない落ちこぼれで高校の時は、ほとんど学校の授業を受けず、いつも好きな小説を読み漁っていた。だから、成績は220人ほどの同期の中で200番台だった。
  • ・初めて読んだ本は兄が借りてきたヴィクトル・ユゴーの『ああ無情』。貧しい農家に生まれ、その貧困のために一切れのパンを盗み、19年もの間牢獄に入れられてしまう主人公。その後、市長まで上り詰めるストーリーだが、このアップダウンの激しい人生を過ごす主人公に自分を重ねていた。
  • ・小学2年生から高校3年生までの11年間、家計を助けるために新聞配達のアルバイトをしていた。おかげで体力や新聞を読む習慣が身につき世の中の多くのことに興味を持つようになった。これは貧しい家庭環境にいたからこそだと思う。
  • ・学校に通っているフリをして向かっていた小高い丘の上にある一本松。「小説が好き」から生まれた小説家になりたいという夢。プルタークの『英雄伝』を読んで生まれた政治家への夢。そして、一本松のあるこの場所では、牧場主になりたいという夢が生まれた。それは噴煙を吐き出す阿蘇山を眺めていた時にふと思いついた「あの阿蘇山の麓で牛を飼って大牧場を経営したい。」という気持ちからだったが、この時漠然と心に描いた夢は、その後、私の人生を大きく変えることになった。
幼少期の蒲島郁夫 中学生の蒲島郁夫

初めての就職〜渡米
落ちこぼれ人生 「夢」を求めて新たな道へ

  • ・高校を卒業した1956年、「就職くらい普通にしてみよう」という気持ちで自宅から3時間30分を要する県内の自動車会社へ就職。「働かざる者、食うべからず」そう自分を奮い立たせて働き始めたものの、一週間で退社。次は家から10分の地元の農協へ。
  • ・その農協も「退職」という二文字が浮かんでいた頃、たまたま読んでいた新聞の広告に心を奪われてしまった。それが派米農業研修生プログラムである。そこで牧場主の夢がピンと当てはまって決死の思いで英語を勉強し、4倍の試験にパスしてアメリカ行きが決定したのである。21歳5ヶ月の時、初めて自ら決めた道を歩み始めたのである。
社会人の蒲島郁夫1 社会人の蒲島郁夫2

夢への渡米〜農奴のような生活
大逆転 妻の存在とハーバード大学

  • ・1968年6月29日、期待に胸を膨らませた農業研修生を乗せたチャーター機は、ワシントン州のシアトルに到着。一ヶ月の語学研修、オレゴン州で三ヶ月間のりんご農場での実習後、一番求めていた牧場での研修は、アイダホ州バーレイの綺麗な田園風景の広がる場所で始まった。
  • ・「現実は恐ろしいほど違っていた」そう思うほどに過酷なものだった。干草やトウモロコシを大量にトラックに詰め込み、牛と羊の餌やり、餌場への荷下しと休む間もなく何百頭もの牛や羊に餌をやり続け、ようやく朝食にたどり着ける。重労働、過酷な環境に加えボスとウマが合わない精神的苦痛。労使関係にありながら一緒の屋根の下での暮らしは監視されているような気分でストレスもひどく感じていた。
  • ・毎日が本当に辛かったが、それでも頑張れたのは後に妻となる彼女からの手紙のおかげだった。渡米前にパスポートの申請で熊本県を訪れた時に出会い一目惚れしたことから交際が始まった。国際電話など全く普及していない時代に、エアグラムという折りたたむとそのまま封筒として出せるものを利用して、3日に1度は手紙を出していて、彼女からの返事は心の支えになっていた。
  • ・重労働を乗り越えた私は、研修プログラムの一環でネブラスカ大学で畜産学を受講。もっと勉強したいという気持ちから再渡米を誓って帰国。牛乳配達の仕事で片道切符を稼いだ後、研修時に出会った先生たちの後押しもあり無事ネブラスカ大学へ入学。悪い成績をとったら即退学という条件付き入学だったことから懸命に勉強し、ストレートAをとったことで退学どころか奨学金ももらえることになり、彼女を熊本から呼んで学生結婚を果たす。
  • ・ネブラスカ大学も卒業を迎えようとしていた時、小さい頃に逆境の中で描いた夢が道しるべとなり、「ここを辞めて政治学を勉強したい」そう決心しハーバード大学を受験、合格を果たす。
渡米した蒲島郁夫1 渡米した蒲島郁夫2

成功への第一歩〜
逆境は成功の鍵

  • ・実はハーバード大学を出る頃には、日本で政治学者になりたいと思うようになり、帰国後もご縁に恵まれて無事筑波大学で講師を務めることになった。実は務めるようになるまでオファーがあった大学で採用が取り消されるなど紆余曲折はあったが、その折にハーバード大学時代に出会った方々からの有難い支援があった。このように一つ一つのピースがつながりあっているから、一つ欠けても今の私は成立しないのだ。そして、このように人との出会いを大切にできたのは、私自身が回り道の多い人生だったからではないかと思っている。回り道には、その回り道を必死になって走っていれば、必ず助けてくれたり一緒に走ってくれたりする人物がいるのだ。
  • ・筑波大学に勤めて17年、「政治過程論の講座を我が校でやってみないか?」そんな予備校のキャチフレーズみたいな誘いがあった。それが東京大学からの誘いであった。家族も私もここまで好きにやらせてくれる大学は筑波大学しかないと思っていたが、人生を振りかえってみた時、私は常に逆境の中を歩んできたことを思い出した。「東大に行ってみよう」その言葉に家族も理解を示してくれた。
  • 東大でのゼミは非常にエキサイティングで面白かった。初めて開講したゼミは「新党の研究」で、1992年以来多くの政党が生まれては消えていった背景を元に資料を収集して分析を試みる取り組みである。学部生たちにとってはたった2単位しかもらえないが、損得勘定抜きに必死に研究に励んでくれて東大法・蒲島ゼミ『「新党」全記録』(全三巻、木鐸社)を出版するまでに至った。
  • 私は子供の頃から貧乏という絶対的な逆境であった。人生のスタートラインがもともと他の人たちよりも、ずっと下にあったのだ。しかし、これこそがチャンスである。今いるポジションが悪ければ悪いほど、下であれば下であるほど、そこから飛び出せる距離は大きいのだった。逆境こそそういった大きな飛躍ができる幸せの源泉なのである。
日本へ帰ってきた頃の蒲島郁夫1 日本へ帰ってきた頃の蒲島郁夫2 日本へ帰ってきた頃の蒲島郁夫3
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